【対談】松田公太×橋下徹 現在700店舗を超えるコーヒーチェーン「タリーズコーヒー」。もともとはシアトルに4店舗しかない喫茶店だった。 タリーズコーヒージャパン創業者の松田公太氏に、誕生の舞台裏を聞いた。

ゲスト 松田公太
1968年生まれ。筑波大学卒。新卒で三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入行。97年にタリーズコーヒー日本1号店を創業。2001年にナスダック・ジャパン(現・新JASDAQ)に上場。07年に社長を退任。

現在700店舗を超えるコーヒーチェーン「タリーズコーヒー」。もともとはシアトルに4店舗しかない喫茶店だった。
タリーズコーヒージャパン創業者の松田公太氏に、誕生の舞台裏を聞いた。

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橋下徹(以下、橋下)
 今回のゲストはタリーズコーヒージャパンの創業者で、参議院議員も務められた松田公太さんです。今回は起業のきっかけから、政治家時代のこともお聞きしたいと思います。幼少時代は海外でお過ごしだったとか。

松田公太(以下、松田)
 はい、父が水産関係の仕事をしていて、5歳から10歳までアフリカのセネガルで、その後、米国で高校時代まで過ごしました。

橋下
 ビジネスには高校生の頃から関心があったんですか?

松田
 はい。友達のお父さんが会社員から不動産ビジネスで独立し、やがて立派なオフィスを構えて成功する姿を目の当たりにしたことがあって。友達の家もどんどん裕福になって別荘や船を買って、「ビジネスで成功するって、こういうことなんだ」と感じましたね。

橋下
 米国と日本では、起業に対するイメージがぜんぜん違いますよね。労働人口の3~4割が自営業者だから、独立して当たり前の文化がある。

松田
 それで自分も「将来は食を通じて日本と世界をつなぐ仕事をしよう」と決めたんです。でもある日、「ちょっと待てよ、自分はずっと海外で生活していて、日本のことを何も知らない」と気づいて。それで両親を説得して、高校卒業後は一人で日本に住み、日本の大学に進学することにしました。

橋下
 実体験で文化を摑もうと思ったわけですね。

松田
 はい。日本社会の縮図である先輩後輩の文化を学ぶために、大学では体育会系の部活に入りました。

橋下
 大学卒業後は銀行に入られますが、それもビジネスやお金の流れを学ぶためですか?

松田
 そのとおりです。新卒の就職は一生に一回しか経験できないので、これも勉強だと思い、いろんな業種の会社を回りました。実はその中で「一番行きたくない」と思ったのが銀行だったんです。

橋下
 (笑)。なのにどうして入行されたんですか?

松田
 銀行って堅くてお役所的な感じがあるから嫌だったんですが、銀行で働く先輩と会ったとき、正直に「将来は起業したいので、どこに就職しても5年で辞めます」と言ったら、「銀行で働くとたくさんの社長と会えて、自分が経営者になったときの準備ができるぞ」と言われたんです。確かにと、納得させられました。中小企業ならたいていの場合、都市銀行の担当が訪ねていけば、社長が対応してくれるんですね。

橋下
 なるほど。

松田
 それで銀行に入行しました。支店で営業の仕事をしながら、海外とビジネスができるネタがないか、常にアンテナを張り巡らせる日々を数年間送りました。

橋下
 そのアンテナにタリーズが引っかかったわけですね。

松田
 1995年に、たまたま高校時代の友人の結婚式が米国であって、久しぶりにボストンに戻ったんです。すると見たことがない「スペシャルティコーヒー」と謳うコーヒーショップが街中にできていました。米国ではコーヒーを一杯99㌣ぐらいで飲めるんですが、それ以上の値段で売れていることにびっくりしました。実は私、それまでコーヒーがあまり好きじゃなかったんです。

橋下
 そうだったんですか(笑)。

松田
 はい、昔から「自分に合わないこと」はチャレンジする主義なので、行列に並んで店員に「どれが人気なの」と聞いたら「ラテだよ」と。3㌦ちょっと払って飲んだら、実に美味しかった。「これが本物の味なんだ」と感動して、「日本にあったら、自分のように今までコーヒーが好きじゃなかった人も、好きになるに違いない」と思ったんです。

■米国に4店舗しかなかったタリーズを日本へ
橋下
 当時、日本にスターバックスは進出してたんですか?

松田
 まだでした。僕がタリーズと交渉してたときに新聞で進出を知って、「先を越された」とショックを受けたのを覚えています。

橋下
 でも、ツテもないなか、どうやってタリーズを日本に持ってきたんですか?

松田
 研究のためにコーヒーショップの集積地だったシアトルで50店舗ぐらい回ったんですが、そのなかで一番美味しかったのが、タリーズだったんです。ただ当時でもスタバはアメリカ全土に1000店舗以上あったのに対し、タリーズは当時4店舗しかありませんでした。

橋下
 えっ、そんな小さなチェーンなんですか。

松田
 はい、街の小さなコーヒー屋さんです。経営者も海外進出しようなんて、まったく思っていなかった。ただ一つだけタリーズには、ほかのどの店にも負けない売りがありました。コーヒー豆のレベルがものすごく高かったんです。創業者のこだわりで世界一美味しいコーヒーを出すために、世界中から一番いい豆を集めていました。それで「豆とロゴマークだけ日本で使わせてもらう」という契約をしたんです。現在ではアメリカのタリーズはすべて閉店し、日本にしかない状況です。

橋下
 そうなんですか。銀座に1号店を出しましたよね。すぐ近くにスタバもあったと記憶しています。あえてぶつけたのは何か理由が?

松田
 実は広尾に1号店を出そうと考えていたんですが、「銀座のいい場所にある老舗の喫茶店が、閉店を検討している」という電話が不動産会社からあったんです。それでその喫茶店の前に立って、通る人の性別や年齢層をチェックしたら、明らかに広尾よりもお客様になってくれそうな人が多かったんですね。

橋下
 なるほど。

松田
 するとたまたま、店の脇にあるタバコの自販機でお釣りを交換している人がいたんです。「この人がオーナーだろう」と思って声をかけたらやっぱりそうで、「ぜひ、ここでコーヒー屋をやらせていただけませんか」と頼みました。必死で頼んだので熱意が伝わって、「君がやるならいいだろう」と閉店を決意してくださり、出店することができました。

橋下
 銀座のスタバとの競争はどうだったんですか?

松田
 当初はボロ負けです。向こうは長蛇の列で、こっちは閑古鳥という状態が半年以上続きました(笑)。お客さんを増やすために銀行時代に学んだ新規開拓精神で、チラシを作って近くの会社に飛び込み営業しました。

橋下
 ガッツがあるなあ。

松田
 近くの百貨店の三越にも営業に行ったんですが、地下の事務所で休んでいる社員の方々にチラシを配っていたら、がっしりした男性社員の方に「何やってんだ」と怒られたんです。「すみません、近くでエスプレッソを出すコーヒー屋を開店しまして......」と言ったら、「俺はイタリアの三越にいたから、エスプレッソに詳しいぞ。一度行ってやるよ」と言うんです。その方、翌日に本当に来てくれて「確かにうまい。俺が宣伝しといてやる」と言ってくれて、次の日から三越の社員の人たちが休憩所代わりに店を使ってくれるようになりました。実はその方、三越銀座店の店長で、常務取締役だったんです。

■政治家を辞めて何をしているのか
橋下
 いやあ、すごい話ですね。ビジネスは本当に人のつながりですね。そんな松田さんが、タリーズコーヒージャパンの創業者として確固たる地位を築いた後で、政治家に転身されたのはどういう理由で?

松田
 出馬したのは10年だったんですが、そのときEggs'n Thingsというハワイのカジュアルレストランの権利(米国除く全世界)を取得した直後だったんですね。

橋下
 へえ。朝食でたいへん有名なお店ですよね。

松田
 はい、タリーズを譲渡して、1号店を原宿につくっていたときです。アロハシャツにジーパンで店舗に立っていたら、政治家の方々から連絡が来るようになって「ぜひ、出馬していただきたい」と。全くそんな気はなかったので初めは断っていたのですが、もともとビジネスも「日本を元気にしたい」という気持ちをベースに始めたので、「自分のような政治の門外漢だからこそ、何かできることがあるかも」と考え、5月に出馬発表しました。

橋下
 政治の世界はどうでしたか。

松田
 難しいことだらけでしたね。

橋下
 政治の世界に復帰したいとは思いませんか?

松田
 もう政治はいいですね。現在は、民間から日本を元気にしたいと思っています。今、力を入れている一つがエネルギービジネス。政治家のときに東日本大震災と原発事故が起こり、経済産業委員会で調査した結果、日本は自然エネルギーの割合を増やしたほうがいいと考えるようになりました。性能の高い小型のボイラーをヨーロッパから輸入し、間伐材やペレットなどを燃料にして、電気ではなく熱を供給するビジネスを始めました。たまたま木質バイオマスの研究の第一人者と知り合い、その方に社長をやってもらって、ここ数年で黒字化が見えてきたところです。

橋下
 それは期待できそうですね。またお話ができることを、楽しみにしています。

※「みんなのJAPAN MOVE」を再構成(プレジデント社 PRESIDENTより抜粋)


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