「なぜ政治家や社長は明々白々な『失言』をしてしまうのか」

Question
■不用意なコメントで炎上するのを避けるには

 新年会シーズンです。経済団体などのパーティには取材も入り、経営者のコメントがメディアで報道されることもありますが、発言が意図せず否定的に捉えられ、炎上するリスクもあります。コメントが失言とならないようにするには、どうしたらいいでしょう。

Answer
■視聴者「数千万」の前では仲間内の常識は通用しない

 新年を迎えるにあたり、人々の印象に残る言葉を発したいと願うのは人間の素直な感情です。しかし、時には組織の不利益や自らの進退にも影響しかねないコメントやメッセージには、よくよく注意が必要です。
 
2022年11月には、当時の葉梨康弘法務大臣が、パーティの席上で法相の職務を、「朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになる」「そういうときだけという地味な役職だ」と発言し、炎上しました。その後発言を撤回し、謝罪しましたが、結局は閣僚辞任に追い込まれました。岸田文雄内閣で総務政務官に任じられた杉田水脈氏は、過去にLGBTカップルを「生産性がない」と断じるなど問題発言の多い政治家ですが、総務政務官就任後にそうした姿勢が大批判を浴び、22年末に政務官を辞任しました。
 政治家に限らず経営者も、時に失言をきっかけに進退を問われます。古くは00年に雪印乳業が集団食中毒事件を起こした際、対応に追われた当時の石川哲郎社長が、追いすがる報道陣に対して「私は寝てないんだよ!」と発言し、大炎上しました。
 22年には牛丼チェーン吉野家の常務が、若い女性をターゲットにした集客を「生娘シャブ漬け戦略」と名付け、これまた大炎上。「田舎から出てきた右も左もわからない女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする」という時代錯誤な女性蔑視発言は、それが「デジタル時代のマーケティング総合講座」での発言だったこともあり、歴史に残るブラックジョークと化しました。

 なぜ、こうした「失言」はなくならないのか。原因は3つ考えられます。

①「個人」としての発言が「組織」の信頼度に及んでしまう。
②世間一般の感覚と個人の感覚の間に、大きな「ズレ(乖離)」が生じており、それに気づけない。
③「仲間内の発言」がマスメディアに載ったとき、質的に激変することを理解していない。

 1つずつ確認しましょう。まず①。「どうお考えですか」などとマイクを向けられたとしても、それは「個人」ではなく「組織に属する人間」としての発言が求められているのだということをしっかり意識すべきです。よくあるのは「一個人として発言したつもりが、会社組織に迷惑をかけた」パターンです。非公式の場であっても、メディアは「完全なる個人」とはみなしません。後から「個人としての見解でした」と注釈したのでは遅いのです。
 たしかに僕らコメンテーターもかなりきわどい発言をします。しかし時には「炎上」を狙って大胆な発言に及ぶ態度も、僕らは完全な「個人」として活動しているからで、そこが組織人とは異なる点です。僕らの発言が数千人もの社員の生活を変えたり、組織を傷つけたりすることはない。最悪の場合でも、「個人が干されて終わり」です。

■無理に面白いことや新奇な意見を披露する必要はない

 そんな僕も大阪府知事や大阪市長時代は、「自分の発言=組織の看板」という意識を常に持っていました。組織のリーダーはコメンテーターとは異なり、無理に面白いことや新奇な意見を披露する必要はありません。もし発言するならば、それは組織の利益に与する発言であるべきなのです。
 ②の、世間一般と個人の間の「感覚のズレ(乖離)」ですが、「発言」が墓穴を掘るのは「ジョークのつもりだった」場合が圧倒的に多いのです。
 「死刑のはんこ」も「生娘シャブ漬け」も、発言者は「ジョーク」のつもりで発言したはずです。しかし語られている内容がよくなかった。今の時代、死刑という厳粛であるべき事柄はジョークにふさわしいとは思えませんし、大企業の戦略を「シャブ漬け」に例えるなど、もってのほかです。
 これは世間一般の感覚と、自分個人のそれが完全に「ズレ」ていたことに気づけなかったことが敗因です。
 笑いやジョークは、そもそもが「ズレ」を利用するもの。「お堅い人間が、予想外に面白いことを言う(する)」といった意外性が起爆剤となり、人々の笑いが巻き起こります。しかし、そもそもの一般常識や認識が、世間と「ズレ」ていたのでは、お話になりません。
 彼ら彼女らにしても「面白いことを言わなくては」「印象に残る言葉を発したい」というサービス精神が背中を押したのでしょうが、本来、ユーモアやジョークは非常に高度な技術を要することを肝に銘じ、自らハードルを上げることは慎むべきでしょう。お笑いタレントや芸人たちがテレビで普通に面白おかしく話していることには、一般人では決して真似することができない超高度なテクニックが施されているのです。タレントや芸人たちはそこを見せずに軽々と日常会話風にやっている。だから自分にもできると思ってしまうことが地獄に向かう第一歩ですね。
 最後に「仲間内の発言」がマスメディアに載ったとき、質的に激変すること(③)についてお話しします。政治家や経営者が「失言」しがちなのは、自分の味方に囲まれている安心感があるときです。政治家なら後援会や支持者に囲まれている、経営者なら社員を前にしている――など、身内ならではの気安さが「ジョークで笑わせたい」欲を生んでしまう。しかし、数千人であろうと「身内」だけを前に喋ることと、最終的にマスメディアに載り、何百万、何千万人もの耳目に触れることの質的な違い、破壊的効果を理解していない人が多すぎます。

■前後の文脈をたどれば納得のいく内容であることが多い

 実は僕自身もコメンテーターとして活動し始めた頃、そのレベルの差を、身をもって学びました。自分の発言が「炎上」しうることは承知のうえでの「発言」。しかし、その規模感は想定以上で、日本全国総バッシング状態も味わいました。仮に皆さんがコメンテーター気分で何かしらの見解を発言する際も、自分の味方ではなく、アンチの立場の人々に向けて発言する意識が大切です。自分のそのコメントが重箱の隅をつつくがごとくに扱われることを前提にマイクを握るべきなのです。
 実は「失言」も、前後の文脈をたどれば納得のいく内容であることが多い。「死刑のはんこ」発言も、決して法相の任務を軽視する意図があったわけではなく、法務省は企業とのコネクションが弱いので政治資金や票を集めにくいという立場を説明するための自虐ネタでした。それでも「死刑」を引き合いに出してしまったところに、世間と個人の認識の「ズレ(乖離)」があり、さらにマスメディアに載ったことで、内輪での軽口から、絶対アウトの失言に激変してしまった。
 「自分の話は面白い、周囲にウケる」と自信を持っている方、それは「身内だけ」の話だからです。失言とならずに身内の「外」の人たちを笑わせるには、相当な技術が必要であることを肝に銘じましょう。

prev back next