「なぜ日本の新聞が外国の新政権を発足前から『ポピュリスト』とバカにするのか」

Question
■レッテル貼りで理解するのが不毛な理由

 イタリア上下両院の総選挙で、野党の右派政党「イタリアの同胞(FDI)」が第一党に躍進しました。日本のメディアは「伊にポピュリズム政権誕生」などと報じ、警戒感を表しました。振り返れば、同じイタリアで4年前に左派「五つ星運動」が躍進した際も、世界中のメディアが「ポピュリズム」のレッテルを貼り懸念を表明しました。世界で台頭する新興政党を私たちはどのように理解すべきでしょうか。

Answer
■公約よりも実際の政治運営を見てから評価せよ

 「ポピュリズム」というのは極めて使いやすい言葉ですよね。新聞やニュース番組でも、短くセンセーショナルで耳目を集める用語ですから、よく使われます。あまりに安易に使われ過ぎて、手垢が付き過ぎているとも言えるほどです。
 ただ、こうした言葉を使う際には注意が必要です。たとえばポピュリズムという言葉を使う背景には、無意識の「上から目線」、自らをインテリであると認識したうえでの安っぽい予断が含まれているからです。
 「ポピュリズム」、ときに「大衆迎合主義」と訳されることもあるこの言葉には、「教育を受けたエリート層を軽視し、無教養な大衆に迎合した政策や政治を行うこと」という本音が見え隠れします。イギリスのEUからの離脱や、アメリカのトランプ前大統領による自国ファースト主義以降、ひんぱんに使われるようになりました。
 しかし、改めて広辞苑で「ポピュリズム」を引くと、「一般大衆の考え方・感情・要求を代弁しているという政治上の主張・運動」とあります。要するに本来の「ポピュリズム」とは「民意を受けている」こと。民主主義の原則そのものなのです。
 もちろん今回のウクライナ侵攻でロシアが強行したウクライナ4州の「併合」のように、銃を構えた兵士を後ろに従え各戸訪問して投票用紙を集めたり、透明な投票箱を使用するような"投票"の場合は、民意を受けているとは言えません。
 しかしイタリアは成熟した民主主義国家です。国内・国外の、政治的に独立した報道に自由にアクセスできるイタリア国民が、公明正大な選挙で投票した結果が、FDIの第一党への躍進です。それを外国である日本の新聞などが「ポピュリズム」「民主主義のもろさ」と断じるのはおかしいでしょう。
 それは報道の担い手、記事の書き手、ワイドショーの語り手が、「我こそが冷静な判断のできる教養層であり、イタリア有権者はそれができない愚鈍な民である」とコメントするのに等しい傲慢さではないでしょうか。
 政治家時代の僕もかつて「ポピュリスト」と呼ばれたものです。でもその言葉は、僕に向けての中傷である以上に、大阪の有権者をとことん愚弄する発言だと感じていました。「大阪府民・大阪市民は見る目がない」「バカだ」と断じているようなものですから。
 同時に思うのは、このようなメディアの姿勢こそが、新聞やテレビなどマスメディアを衰退させている一番の原因ではないかということです。既存の政治、組織、体制、制度に「NO!」を突き付ける人々が政治に何を求めているのか、その背景を丁寧に探れば、社会の一端が見えてくるのにそれをせず、ありきたりのレッテル貼り批判をすることによって既存の秩序を守ることに必死になってしまっている。
 僕は4年前、イタリアの「五つ星運動」を取材しました。当時横行していた汚職、賄賂、インテリ層の政治独占に否を唱える若者たちの勢い、理念に大いに胸を揺さぶられましたね。
 ところが今回の選挙で「五つ星」の勢力は大きく後退しました。この間、世界は激変し、コロナ禍による景気後退や、ロシアによるウクライナ侵攻、そして物価高のインフレを人々は経験しています。そのような中でイタリア国民の多くも「もっと自国優先にしてくれ」という政治意識にシフトしていったのでしょう。
 FDIについては、これまで協調路線を歩んできたEUと距離を置くのではないか、国民にバラマキ政策を行うのではないか、親ロシア外交を行うのではないか......などと様々なことが囁かれ、それを一括りにして「ポピュリズム政党だ」と批判されています。
 でも、よく考えてください。FDIはまだ何も始めていないのです。どこの国でも、実際の政治運営に当たっては第一党が掲げた選挙中のキャッチーな公約通りには物事は進みません。他党とのバランスを鑑み、現実路線で軌道修正を図るものです。政治批判をするならば、そうした現実的手腕を見てからにすべきです。

■「悪しき」ポピュリズムは確かに存在する

 ただ、そうはいっても世の中に「悪しき」ポピュリズムは確かに存在するというのも僕の持論です。たとえば安倍晋三元首相の国葬が決まったときのプロセスです。
 衝撃的な凶弾事件の直後、国民の間で国葬待望論が湧き起こりました。しかし日本は共和制ではなく象徴天皇制の国家です。「国葬」は内閣だけで決定されるべきではなかったし、そもそも日本が国を挙げて行う儀式が、日本武道館のような"体育館"で、しかもほぼ献花で時間が過ぎゆくものであってよかったのか。深い議論もなく一時の感情に流されての決断は、典型的な「悪しき」ポピュリズムだったのではないでしょうか。
 また政治と旧統一教会の関係を巡る総バッシングもそうです。もちろんこの問題に関しては、批判されるべき点、改めるべき点は多々ありますよ。政治家が旧統一教会の広告塔になったり、旧統一教会を選挙利用したりするのはダメ。旧統一教会が高額献金を受けることも問題がある。
 ただし、法律的観点を無視して、批判するのもダメです。旧統一教会との接点をすべて断つべきだとなると、違法行為をしていない旧統一教会の信者をすべて排除することになる。その場合には、他人に対して「あなたは旧統一教会の信者ですか?」と確認しなければなりません。信じる宗教を確認すること、宗教によって差別的扱いをすることが法律的にどれだけまずいことなのかを考える必要があります。違法行為を正したり、高額献金を規制したりすることを超えての総バッシングは、感情に基づく「悪しき」ポピュリズムと言えるでしょう。

■政治と旧統一教会の関係の清算には、選挙制度改革も必要

 なぜ政治家が旧統一教会に近づくのか。それは選挙利用のためです。というのも日本の選挙運動には、たくさんのお金と人手が必要だからです。選挙のたびに立てられるベニヤ板の掲示板に候補者のポスターを貼っていくだけでも、多くの人の手を借りなくてはなりません。そこで旧統一教会のような組織動員できる団体頼みが生まれるのです。そもそも21世紀において、紙のポスターではなく、電子ポスター(デジタルサイネージ)を導入するなどの議論がなぜ生まれないのか。政治と旧統一教会の関係の清算のためには、実は選挙制度改革も必要なのです。
 今後ますます複雑化する世界では、これまでの常識や既存の秩序からは理解しにくい社会現象・運動も起こるでしょう。その際に「ポピュリズム」「右傾化・左傾化」「政治と宗教の癒着」などという"レッテル"を貼って感情的に安易に批判するのではなく、一見すると自らの常識とはかけ離れる事象についても論理的に思考していくことが必要です。この点については拙著『最強の思考法』で詳述しています。

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